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場所

六義園

庭園 | 東京都 | 観光する

六義園は東京ドームの1.9倍の広さと言われる広大な敷地に茶屋があり、しだれ桜、紅葉をはじめ季節の草花が楽しめる場所です。庭園の始まりは、元禄8年(1695年)、五代将軍・徳川綱吉より下屋敷として与えられた駒込の地に、綱吉の側用人であった柳沢吉保が設計、指揮し、平坦な武蔵野の一隅に池を掘り、山を築きました。そしてその後、7年の歳月をかけて「回遊式築山泉水庭園」を造り上げました。造園当時から小石川後楽園とともに江戸の二大庭園に数えられており、吉保の文学的造詣の深さを反映し、和歌の趣味を基調とした繊細で温和な日本庭園になっています。

場所

清澄庭園

庭園 | 東京都 | 観光する

江東区清澄にある「清澄庭園」は、泉水、築山、枯山水を主体にした「回遊式築山山水庭園」です。この造園手法は、江戸時代の大名庭園に用いられたものですが、明治時代の造園にも受けつがれ、清澄庭園によって近代的な完成をみたといわれています。享保年間(1716~1736年)、下総国関宿の城主・久世大和守が下屋敷として、庭園の基を形づくったとされ、庭園の一部は、江戸の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と言い伝えられています。 そして、明治11年には岩崎弥太郎が、荒廃していたこの邸地を買い取り、社員の慰安や貴賓を招待する場所として庭園造成を計画、明治13年に「深川親睦園」として一応の竣工をみました。その後、弥太郎の亡きあとも造園工事は進められ、池水は隅田川の水を引いた大泉水を造り、周囲には全国から取り寄せた名石を配して、明治の庭園を代表する「回遊式林泉庭園」が完成しました。

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小石川後楽園

庭園 | 東京都 | 観光する

東京ドームに隣接する「小石川後楽園」は花見や紅葉等、四季の移り変わりが楽しめ、都会の中でゆっくりとした時間を過ごせる空間です。 江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、大徳寺左兵衛に命じて江戸の中屋敷(後に上屋敷となる)の庭として造ったもので、二代藩主の光圀(みつくに)の代に完成しました。光圀は作庭に際し、明の儒学者である朱舜水の意見をとり入れ、中国の范仲淹が表した「岳陽楼記」の「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」の教えをもとに「後楽園」と名づけました。

場所

向島百花園

庭園 | 東京都 | 観光する

江戸の町人文化が花開いた文化・文政期(1804~1830年)に造られた庭園。仙台出身の骨とう商を営んでいた佐原鞠塢(さはらきくう)によって開設され、交遊のあった江戸の文人墨客の協力を得て、旗本、多賀氏の元屋敷跡である向島の地に、花の咲く草花鑑賞を中心とした「民営の花園」を造り、開園しました。江戸の文化人をはじめ、明治へ時が移っても、幼少時代の昭和天皇、伊藤博文や乃木将軍など多くの人々に愛されてきました。 開園当初は、360本のウメが主体で、当時有名だった亀戸の清香庵字臥竜梅の梅屋敷に対して「新梅屋敷」と呼ばれたほどです。その後、ミヤギノハギ、筑波のススキなど詩経や万葉集などの中国、日本の古典に詠まれている有名な植物を集め、四季を通じて花を鑑賞できる様にしました。「百花園」の名称は、一説では、「梅は百花に魁けて咲く」または「四季百花の乱れ咲く園」という意味でつけられたと言われています。百花園は当時の一流文化人達の手で造られた、庶民的で、文人趣味豊かな庭として、小石川後楽園や六義園などの大名庭園とは異なった美しさをもっています。

場所

浜離宮恩賜庭園

庭園 | 東京都 | 観光する

高層ビルが立ち並ぶ汐留のビル街の一角に、緑に囲まれた閑静なたたずまいを見せるのが、江戸時代の大名が作らせた、日本を代表する庭園である「浜離宮(はまりきゅう)」です。 歴史を紐解くと、江戸時代の4代将軍家綱の弟である松平綱重が、この地に屋敷を建築することが許されたことが始まりで、その息子である家宣が6代将軍になったことをきっかけに、将軍の御殿となり、当時は「浜御殿(はまごてん)と呼ばれていたとのことです。その後子孫代々に渡り、増改築を繰り返しながら今の姿になりました。江戸幕府が滅びてからは、皇室の離宮となり、名前も今の「浜離宮」と命名されたのです。

傘松公園
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天橋立

名所 | 京都府 | 観光する

京都府北部、日本海の宮津湾にある「天橋立(あまのはしだて)」は、陸奥の「松島」、安芸の「宮島」とともに、「日本三景」とされている特別名勝のひとつです。宮津湾に浮かぶ幅約20~170m、全長約3.6kmの砂嘴(さし)が、内海「阿蘇海」をつくっています。阿蘇海は智恩寺横の切戸文珠(きれどもんじゅ)と文珠水路(もんじゅすいろ)で、宮津の湾へと通じています。一般的には、この景観を展望する傘松公園も含めて、「天橋立」と呼ばれており、天に架かる浮橋のように見えることからその名が付けられたと言われています。天橋立は、平安時代より都人の憧憬の地で、和泉式部、小式部内侍らの和歌をはじめ、16世紀初頭の作とされる雪舟の「天橋立図」にいたるまで、多くの文芸、美術に描かれてきました。

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白山

名所 | 石川県 | 福井県 | 岐阜県 | 富山県 | 観光する

白山は、富士山、立山とともに、「日本三名山」のひとつに数えられ、山頂部は御前峰(2,702m)、大汝峰(2,684m)、剣ヶ峰(2,677m)で構成されています。古くから「しらやま」や「越のしらね」の名で和歌にも詠まれましたが、信仰の山としても知られ、御前峰山頂には白山奥宮があります。養老元(717)年、越前の僧泰澄が、はじめて白山に登り修行したのが信仰登拝の始まりと伝えられています。一億年余り前には、河川が海にそそぐあたりにあった白山地域が、その後少しずつ盛り上がって何度も噴火活動を繰り返して火山として誕生し、今日にいたっています。

萩城跡
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萩城跡・萩城城下町

城・城下町 | 山口県 | 観光する

1600年の関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は、中国8か国から防長2か国に滅封され、萩に城を築くことを許されました。慶長9(1604)年に工事に着手し、4年後の慶長13(1608)年に萩城が完成しました。萩城は日本海へそそぐ橋本川と松本川にはさまれ、日本海に張り出した指月山の詰の丸(実際は二の丸と本丸)と、その山麓に梯郭式に本丸・二の丸・三の丸を配し三重の堀を巡らした平山城で、別名「指月城(しづきじょう)」とも呼ばれています。 以後代を重ねること13代、敬親に至って幕末の多端な国事の処理が不便なため、文久3(1863)年4月に藩府を山口に移しました。明治7(1874)年には、前年に発布された廃城令により、櫓など他の建物とともにすべてが解体され、現在残っているのは石垣と堀の一部だけで、指月公園(しづきこうえん)として整備され、観光名所となっています。

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鬼怒川温泉

温泉 | 栃木県 | 観光する

鬼怒川温泉(きぬがわおんせん)は、栃木県の中央を北から南に流れる雄大な鬼怒川の上流部(栃木県日光市)にあり、渓谷沿いに旅館・ホテルが立ち並んでいます。首都圏からのアクセスが便利なこともあって、東京の「奥座敷」と呼ばれ、関東の温泉地としては箱根と並んで有名です。 現在の「鬼怒川温泉」は、もともと「滝温泉」と呼ばれた鬼怒川西岸の温泉と、「藤原温泉」と呼ばれた東岸の温泉を合わせた地域を指しています。歴史的には、江戸時代に「滝温泉」が発見されたのがはじまりで、当時は日光の寺社領であったため、日光詣の僧侶や大名だけに利用が許されたと言われています。明治時代になって滝温泉が一般にも開放されるようになると、「藤原温泉」が発見されました。昭和2(1927)年に二つを合わせて鬼怒川温泉と呼ぶようになり、昭和4(1929)年の東武鉄道日光線開通とともに関東の一大温泉地として発展しました。

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川治温泉

温泉 | 栃木県 | 観光する

川治温泉は、鬼怒川と男鹿川が合流する峡谷にひらけた温泉郷です。新緑、紅葉が美しく、男鹿川の両岸に立ち並ぶ温泉旅館は静かで、昔ながらの古きよき温泉情緒もたっぷり感じられます。 川治温泉は江戸時代の享保8(1723)年に鬼怒川の上流である男鹿川が氾濫した際に偶然発見されたのがはじまりだと言われています。 江戸時代の江戸時代の享保8(1723)年におこった「享保の大地震」で男鹿川が堰き止められ五十里湖が出現し、その後大雨の影響で五十里湖が決壊、そのとき水が引いた川原の一部から湯気が上がりたくさんの蛇が身を寄せていたそうです。それが川治温泉の起源とされています。以降、会津西街道の宿場町として栄え、旅人や湯治の場として親しまれました。名前の由来は会津西街道の本道とは別に川沿いに通っていた道を「川路」と呼んでいたことから、現在は「川治温泉」になったとされています。

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