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伝統工芸品

紀州漆器

漆器 | 和歌山県 | 知る

紀州漆器は、和歌山県海南市の北西部「黒江地区」を中心に生産されています。その規模は大きく、福島県の「会津塗」、石川県の「山中塗」「輪島塗」と共に日本三大産地に数えられています。 室町時代、紀州付近に住みついていた木地師の集団が、紀州ヒノキを木地に作っていた渋地椀と、現在の那賀郡岩出町にある根来寺の僧侶達による、寺用の膳・椀・盆が一体となって紀州漆器が生まれたと言われています。根来寺に始まったこれらの塗物は、黒漆で下塗りをし、その上に朱塗を塗っていくものですが、未熟練の僧侶が作ったために、使っているうちに、自然に表面の朱塗りがはげて下塗りの黒漆がところどころ露出しました。それがかえって趣あるものとして広まり、当時「根来塗」と呼ばれ親しまれていました。しかし、一国の大名なみの兵力を備えたと言われたほど栄えていた根来寺は、その強大な力を恐れた豊臣秀吉軍によって、天正13年焼き討ちにあい、大塔・大師堂などの2~3の堂塔を残して壊滅してしまいました。その後しばらく復興を許されませんでしたが、難を逃れた僧が、根来塗の技術・技法をもって黒江の職人に漆器の技術を伝え、徳川中期頃には、徳川の御三家である紀州藩の手厚い保護をうけ、「紀州漆器」として発展してきました。明治維新の廃藩置県により紀州藩の保護を失い衰退する危機に陥りましたが、明治3年に本格的な貿易の開始が追い風となって活気を取り戻し、明治12年、他県産の沈金彫の技術を導入、また明治31年には京都より蒔絵師を呼んで、蒔絵の改良を図る等、様々な進化を遂げてきました。

伝統工芸品

銀器

金工品 | 知る

銀器の歴史は古く、延喜式(916年)という法律が書かれた全50巻にわたる文献の中に、銀製の食器や酒器の記載を見ることができます。江戸時代中期には、貨幣を作る金座・銀座があり、大名が集まる政治経済、文化の中心となっていた江戸で、彫金師の彫刻する器物の生地の作り手として、銀師(しろがねし)と呼ばれる銀器職人や、櫛、かんざし、神興(みこし)金具等を作る金工師と呼ばれる飾り職人が登場し、銀器は町人の間でも広く使用されていました。明治維新後は、これらの職人が彫金、鍛金など、分業化することにより、ますます技術力を高め、さらには諸外国への儀礼贈答に、銀製品を採用した国策にも助けられ隆盛を極めました。こうして銀器が特産工芸品としても広く知られるようになり、現在もその技術が脈々と受け継がれています。

伝統工芸品

七宝

工芸品 | 東京都 | 愛知県 | 知る | 身につける

七宝とは金・銀・銅などの金属の上にガラスのような光沢を放つ色つきの釉薬を落とし、高温で焼いて作られたものを言います。これは古代から続いている技術で、中近東からシルクロードを超えて紀元後7世紀前後に、日本にもたらされたとされており、奈良県の牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)から出土した亀甲型七宝金具が最も古いとされています。。また、その装飾の美しさから仏教典で「七種の宝石」、つまり金、銀、瑠璃(るり)、玻璃(はり)、鉅亟(しゃこ)、珊瑚(さんご)、瑪瑙(めのう)にたとえられていることが由来となっているという説もあります。

錫光「アイスペール」
伝統工芸品

錫器

金工品 | 埼玉県 | 大阪府 | 知る

はるか昔から使われていたとされる錫(すず)。日本に伝わったのは1000年以上前とされています。当初、大気中の湿気を寄せ付けない材質のため、茶壷として重宝され使われていました。その後酒器などに使われるようになっていったといわれています。現在では茶壷に代わって茶筒となり、また酒器はビアグラス・ワイングラスやロックグラスなどに代わっています。 錫器を作る錫師の技術は非常に卓越しており、茶筒などは外気の湿気から守るため、ミリ単位を超える細かい技術が要求されます。特筆すべきは蓋を本体の先に載せると、その重みのみで“すーっ”と表面を滑るようにゆっくりと降りてきて、ピタッと蓋が閉まるようすです。

生活

月見

年中行事 | 九月 | 知る

月見は旧暦の8月15日に、お団子やお餅、ススキ、サトイモなどをお供えして月を鑑賞する事で、この日の月は「中秋の名月」、「十五夜」、「芋名月」と呼ばれています。 この旧暦は中国の暦に由来するもので、元々は中国から伝わったと言われていますが、中国では唐の時代に、月見の日にサトイモを食べることから、サトイモの収穫祭の行事として始まり、現在では庭にテーブルを出し、お茶やお酒、おつまみをつまみながら、月餅を食べ、月を楽しむ秋の年中行事となっているそうです。 日本の月見は、奈良~平安時代頃から始まり、江戸時代までは、貴族の風流な遊びだったお月見が、一般家庭にも広まったとされています。

伝統工芸品

香川漆器

漆器 | 香川県 | 知る

香川漆器は、香川県の高松市、丸亀市を主な産地とする漆器で、国の伝統的工芸品のひとつに指定されています。代表的な製品としては、飾棚、盆、茶托(ちゃたく)、菓子器、座卓があげられ、種類の豊富なことでは全国一です。伝統の技法を生かしたものから天然木の持ち味を生かしたものまで、豊かで落ち着きのある生活空間を彩る家具として、幅広く作られ、特に「蒟醤(きんま)」、「存清(ぞんせい)」など技と心が製品に反映されているところから需要が伸び、座卓の生産高は全国シェア75%を誇っています。使っていると歳月とともに「渋」と「味」が美しさを増し、独特の色調が出てくることが香川漆器の特徴です。

伝統工芸品

桐生織

織物 | 群馬県 | 知る

桐生織は国が認める伝統的工芸品の一つで、「西の西陣・東の桐生」と評されるほどの、絹織物の代表的な存在です。桐生織の着物は、落ち着いた風合いで長く着ることができる作品が多く、またしっかりとした作りは着る人に安心感を与えてくれます。桐生織の帯も特に有名で、独特の製法によりはっきりと現れる華やかな文様が和服を着る多くの人たちに愛されています。 桐生織の歴史は1300年ほど前まで遡ると言われています。かつては仁田山紬(にたやまつむぎ)と呼ばれていた桐生織を一躍全国的に有名にした出来事が1600年の関ヶ原の戦いです。このとき、徳川方(新田義貞)より依頼された旗絹を2410疋(ひき)をたった一晩で織り上げ、さらにそれを掲げた徳川軍が戦争に勝ったことで、縁起のいい品として、その名を更に不動のものとしました。その後海外から入ってきたジャガードなどの技術を積極的に取り入れ、現在では国内はもとより海外にも向けて積極的に展開をしており、日本国内において、桐生織の故郷桐生市は、ファッション最先端の街として全国的に有名です。

伝統工芸品

土佐和紙

和紙 | 高知県 | 知る

土佐和紙は高知県の南国市、土佐市、吾川郡いの町、高岡郡津野町などで作られ、書道用紙、手工芸用紙、表具用紙、障子紙、絵画版画用紙、和紙加工品 として多く用いられています。和紙の原料、和紙作りのための道具、和紙作り、すべてが地元で賄われており、土佐で採れる豊富で質の良い原料をふんだんに使うため、優れた品質として発展してきました。また、現在もコウゾ、ミツマタ、ガンピ、稲わら、竹などを原料に、流し漉き、溜め漉きなどをほとんど手作業で行っており、一軒一軒が異なる紙を漉いているため、その品種の豊富さに特徴があります。

にぎり
食べ物

すし

大衆料理 | 知る

いまや世界中の人が知っている日本の「すし」ですが、一言にすしといっても様々な種類があります。地域色や特別な料理としてのすしを除いた、一般的によく食される代表的なすしを列挙してみると握りずし 国内外外問わず、すしと言ったらまずこれを思い描く人が多いでしょう。一般的には「しゃり」と呼ばれる白米にすし酢を混ぜて作られた酸味のあるご飯の上に、新鮮な魚介類の切り身や煮て甘いたれをつけたもの、また卵や漬物などをのせて 好みで醤油などをつけて食べます。最近ではユニークな具材をのせるすしも見られるようになり、すし=魚という概念を覆すようなものも現われています。軍艦巻き 握りすしの一つとしても考えられていますが、上記とおなじしゃりを海苔で巻きその上に、いくら、うになど握りすしでは形が崩れてしまう具材がのっているすしです。 魚介類以外にも、サラダなどがのせられたものも多く店では見受けられ人気があるようです。巻きすし 巻き簾(すだれ)と呼ばれる道具を使い、この上に海苔を広げそこにしゃりをうすく盛り、さらにその上に細長く具材をのせ、巻き簾を巻いて円筒状にしたすしです。一般的に食されているのは、干瓢(かんぴょう)やきゅうりなどの野菜類、ねぎとろと呼ばれる、まぐろを身をすりつぶしねぎとまぜたものなどが人気がります。また家庭で気軽に作られる苔に自分の好きな量のしゃりと具材を入れて、手で巻いて食べる手巻きすしと呼ばれるものもあります。ちらしすし 同じくすし酢を混ぜたご飯を重箱などに盛り、その上に握りすしで使われる魚の切り身などをのせたり、細かく切った魚介類や野菜などをのせたりして食べるすしです。比較的簡単に作ることができるため、家庭などでもよく食され、各家庭において具材を工夫してオリジナルなものを作ったりして楽しみます。このように様々な種類のすしがあります。また、お店の在り方も近年大きく変わってきました。かつてはすしは日本におけるファーストフードであり、一般の人は魚市場近くの屋台などで気軽に立ち寄り、ちょっとつまむように食することが多かったのですが、段々と高級な食事としてのすしが栄えはじめ、各地域にカウンター式のすし屋がたくさん立ち並び始めました。この頃はすしをつくる料理人も非常に高度な技術を要求され、ご飯を作るだけで3年、握りすしを作れるようになるまでに8年、合計で10年以上の修行を積まないと一人前として認められないほどでした。新鮮で高級なネタと料理人の技術、またカウンター越しにお客さんときさくな会話をすることも料理人には要求され、すし屋は一般の人にとって特別な日の贅沢な料理と空間という感覚が広がっていったのです。しかし、これに対してもっと気軽にすしを楽しめるようにということで、今では主流になっている「回転すし」が登場しました。まず画期的だったのは、それまですし屋での会計は食べ終わった後でないとわからない、時期によって価格が変わる「時価」という形で表わされていたものを、一皿~円と明確にわかるようになったことでした。これによりお客さんが値段を確認しながら安心して食事ができる仕組みを作ったのです。また、非常に高度な技術を要求されていたすしの料理人が、回転すしの登場により作る方も機械化が進み、そこまでの技術を必要としなくなったことも大きく値段を下げ、普段の食事としてすしを楽しめるようになったことに大きく貢献していると言えるでしょう。しかし一方で、ほんもののすしは料理人が早朝に市場に行って新鮮なネタを見つくろい、実際に握ってもらいカウンター越しに話しながら楽しむものだという流れもあります。ですから気軽にすしを楽しむ時は回転すしへ、贅沢に新鮮なネタを楽しむ時はカウンターのすし屋へと使い分けている人も多くいます。すしの楽しみ方例すしは新鮮なネタが非常に重要です。また同じく重要なものが季節です。季節によって魚の味が変わります。以前食べたことがある材料でも、冬と夏とでは味が違うことがあります。ですから、すしを楽しむ時は、料理人に今旬で美味な材料は何か聞いてみましょう。きっと教えてくれるはずです。

大皿に盛られた料理の数々が円卓を囲んで食べられる。
食べ物

卓袱料理・卓子料理

郷土料理 | 長崎県 | 知る

卓袱料理は長崎県の郷土料理です。そのはじまりは、今から約300年以上前にさかのぼります。長崎と中国との接触は慶長5(1600)年に始まりましたが、寛永10(1633)年、徳川家光は、第一回の鎖国令を出し、寛永12(1635)年には中国貿易船も入港は長崎だけに限られました。元禄2(1689)年に唐人屋敷が造られ、それまで長崎市内に散宿していた中国人は現在の館内町の一区域に集まって住むことになります。中国人が長崎へ来て唐人屋敷に移り住むまでの間は、長崎の船宿と呼ばれる民家に自由に散宿していました。これを「町宿(マチヤド)」と呼び、中国人が初めて長崎に来てから唐人屋敷が造られるまでの約80年間は、長崎市民と最も親密な交歓があった時代です。この町宿での生活の中で、長崎市民は、中国人のご馳走、中国料理というものを知ることとなり、自然なかたちで長崎市民の家庭に広まったと言われています。

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