けんろくえん
兼六園
庭園 | 石川県 | 観光する ◢
兼六園(けんろくえん)は、水戸偕楽園(かいらくえん)、岡山後楽園(こうらくえん)と並ぶ「日本三名園」の一つで、江戸時代の代表的な大名庭園として、加賀歴代藩主により、長い歳月をかけて形づくられてきました。金沢市の中心部に位置し、四季折々の美しさを楽しめる庭園として、多くの県民や世界各国の観光客に親しまれています。
兼六園は、「廻遊式」の要素を取り入れながら、様々な時代の庭園手法をも駆使して総合的につくられた庭です。廻遊式とは、寺の方丈や御殿の書院から見て楽しむ座観式の庭園ではなく、土地の広さを最大に活かして、庭のなかに大きな池を穿ち、築山(つきやま)を築き、御亭(おちん)や茶屋を点在させ、それらに立ち寄りながら全体を遊覧できる庭園です。いくつもの池と、それを結ぶ曲水があり、掘りあげた土で山を築き、多彩な樹木を植栽しているので、「築山・林泉・廻遊式庭園」とも言われています。
兼六園の築庭は、延宝4(1676)年に、加賀藩5代藩主綱紀(つなのり)が、建築や営繕を担当する役所である作事所を金沢城内につくり、自己の別荘を建て、その周りを庭園化したのが始まりだと言われています。築庭された頃は「蓮池庭(れんちてい)」と呼ばれ、観月や観楓などの宴を楽しむ清遊の場として、大いに活用されました。その後、何代もの加賀藩主により、長い年月をかけて形づくられてきましたが、作庭における基本的な思想は「神仙思想」というもので、一貫していたと言われています。大きな池を穿って大海に見立て、そのなかに不老不死の神仙人が住むと言われる島を配します。藩主たちは、長寿と永劫の繁栄を庭園に投影したのです。最初の作庭者、5代藩主綱紀(つなのり)は、瓢池に蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)の三神仙島を築きました。また、13代藩主斉泰(なりやす)も、霞ヶ池に蓬莱島を浮かばせています。明治7(1874)年、兼六園は全面的に市民へ開放され、それにあわせて多くの茶店が出店しました。明治13(1880)年には、西南戦争における戦死者を慰霊するため「明治紀念之標」が建立されました。大正11(1922)年、国の名勝に指定され、昭和60(1985)年には特別名勝へと格上げされ、庭園の国宝とも言える最高の格付けを得ました。平成6(1994)年より構想の樹立に入った「長谷池周辺整備事業」が、平成12(2000)年に竣工し、新庭園のなかに、明治の初め取り壊された「時雨亭(しぐれてい)」と「舟之御亭(ふなのおちん)」が再現されたほか、新たに二筋の流れを持つ庭園も整備され、兼六園は一層の広がりをもつこととなりました。
「兼六園」の名前の由来「六勝」
六勝とは、「宏大(こうだい)」「幽邃(ゆうすい)」「人力(じんりょく)」「蒼古(そうこ)」「水泉(すいせん)」「眺望(ちょうぼう)」のことで、宋の時代の書物『洛陽名園記(らくようめいえんき)』には、「洛人云う園圃(えんぽ)の勝 相兼ぬる能わざるは六宏大を務るは幽邃少なし 人力勝るは蒼古少なし 水泉多きは眺望難し 此の六を兼ねるは 惟湖園のみ」という記述があります。その伝えるところは、「庭園では六つのすぐれた景観を兼ね備えることはできない。広々とした様子(宏大)を表そうとすれば、静寂と奥深さ(幽邃)が少なくなってしまう。人の手が加わったところ(人力)には、古びた趣(蒼古)が乏しい。また、滝や池など(水泉)を多くすれば、遠くを眺めることができない」ということです。そして、「この六つの景観が共存しているのは湖園(こえん)だけだ」と結んでいます。兼六園は、当時すばらしいと言われた「湖園」に似つかわしく、六勝を兼ね備えているという理由から、文政5(1822)年、奥州白河藩主松平定信によってその名を与えられました。









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