近畿

1-10件目 / 19

伝統工芸品

紀州漆器

漆器 | 和歌山県 | 知る

紀州漆器は、和歌山県海南市の北西部「黒江地区」を中心に生産されています。その規模は大きく、福島県の「会津塗」、石川県の「山中塗」「輪島塗」と共に日本三大産地に数えられています。 室町時代、紀州付近に住みついていた木地師の集団が、紀州ヒノキを木地に作っていた渋地椀と、現在の那賀郡岩出町にある根来寺の僧侶達による、寺用の膳・椀・盆が一体となって紀州漆器が生まれたと言われています。根来寺に始まったこれらの塗物は、黒漆で下塗りをし、その上に朱塗を塗っていくものですが、未熟練の僧侶が作ったために、使っているうちに、自然に表面の朱塗りがはげて下塗りの黒漆がところどころ露出しました。それがかえって趣あるものとして広まり、当時「根来塗」と呼ばれ親しまれていました。しかし、一国の大名なみの兵力を備えたと言われたほど栄えていた根来寺は、その強大な力を恐れた豊臣秀吉軍によって、天正13年焼き討ちにあい、大塔・大師堂などの2~3の堂塔を残して壊滅してしまいました。その後しばらく復興を許されませんでしたが、難を逃れた僧が、根来塗の技術・技法をもって黒江の職人に漆器の技術を伝え、徳川中期頃には、徳川の御三家である紀州藩の手厚い保護をうけ、「紀州漆器」として発展してきました。明治維新の廃藩置県により紀州藩の保護を失い衰退する危機に陥りましたが、明治3年に本格的な貿易の開始が追い風となって活気を取り戻し、明治12年、他県産の沈金彫の技術を導入、また明治31年には京都より蒔絵師を呼んで、蒔絵の改良を図る等、様々な進化を遂げてきました。

錫光「アイスペール」
伝統工芸品

錫器

金工品 | 埼玉県 | 大阪府 | 知る

はるか昔から使われていたとされる錫(すず)。日本に伝わったのは1000年以上前とされています。当初、大気中の湿気を寄せ付けない材質のため、茶壷として重宝され使われていました。その後酒器などに使われるようになっていったといわれています。現在では茶壷に代わって茶筒となり、また酒器はビアグラス・ワイングラスやロックグラスなどに代わっています。 錫器を作る錫師の技術は非常に卓越しており、茶筒などは外気の湿気から守るため、ミリ単位を超える細かい技術が要求されます。特筆すべきは蓋を本体の先に載せると、その重みのみで“すーっ”と表面を滑るようにゆっくりと降りてきて、ピタッと蓋が閉まるようすです。

中北町
生活

岸和田だんじり祭

祭り | 大阪府 | 九月 | 十月 | みる

岸和田だんじり祭(きしわだだんじりまつり)は、毎年秋に大阪府岸和田市で行われる祭りで、全国的にも知名度が高く、日本を代表する祭りの一つです。 岸和田地区、春木地区は9月に、旭・太田地区、修斉地区、南掃守地区、八木地区、山直地区、山直南地区、山滝地区は10月に行われます。各町のだんじりがそれぞれの氏神社に宮入りし、安全を祈願します。 見どころは、曳き手が走り、速度に乗っただんじりを曲がり角で方向転換させる「やりまわし」です。岸和田だんじり祭では、京都の祇園祭の鉾や飛騨高山祭の山車のように慎重に角を曲がるのではなく、勢いよく走りながら直角に向きを変えるのが特徴で、その迫力とスピードゆえ、全国から多くの観光客を集めています。

傘松公園
場所

天橋立

名所 | 京都府 | 観光する

京都府北部、日本海の宮津湾にある「天橋立(あまのはしだて)」は、陸奥の「松島」、安芸の「宮島」とともに、「日本三景」とされている特別名勝のひとつです。宮津湾に浮かぶ幅約20~170m、全長約3.6kmの砂嘴(さし)が、内海「阿蘇海」をつくっています。阿蘇海は智恩寺横の切戸文珠(きれどもんじゅ)と文珠水路(もんじゅすいろ)で、宮津の湾へと通じています。一般的には、この景観を展望する傘松公園も含めて、「天橋立」と呼ばれており、天に架かる浮橋のように見えることからその名が付けられたと言われています。天橋立は、平安時代より都人の憧憬の地で、和泉式部、小式部内侍らの和歌をはじめ、16世紀初頭の作とされる雪舟の「天橋立図」にいたるまで、多くの文芸、美術に描かれてきました。

オーダーメイドの和包丁たち
伝統工芸品 スペシャル

芦刃物製作所

金工品 | 大阪府 | 買う

「堺刃物」の伝統を継承し、機械による加工と熟練した職人の手による技術をうまく融合させた生産方法により、高品質の料理包丁を中心にカスタムナイフ、オリジナル篆刻刀などを製造販売しています。刃物には地金(軟鉄)と刃金(鋼)を合わせて火造りして作る打刃物と、刃身全てが鋼の全鋼製のものがあります。芦刃物製作所では全鋼製の刃物を先代から作り続けており、現在では食文化の変化に目を向けた洋食厨房向けの業務用包丁をメインに力を注いでいます。ステンレス・炭素鋼共に硬さ、ねばさのバランスが最適になるよう素材を生かした熱処理と、熟練した職人の手作業による刃付けで一本ずつ丁寧に仕上げられており、手にしたときから素晴しい切れ味が楽しめます。

伝統工芸品

京扇子

その他工芸品 | 京都府 | 知る

扇子は日本を象徴するもののひとつであり、日本人のこころに華やかさと安らぎを与えてきました。扇のはじまりとされる平安時代からそのほとんどが京都で生産されてきました。今も京都市や宇治市、亀岡市などが京扇子の産地として、招涼持ち扇(しょうりょうもちおうぎ)、儀式扇、芸事扇、飾り扇 など様々な扇子が作られています。京扇子ならではの技法として、扇面一面に極薄の金箔を一枚ずつ貼りつめていく、非常に高度な技術を要する「無地押し」というものがあります。扇は平安時代の日本、つまり京の都で生まれたと伝えられています。平安時代初期に使用されていた木簡(もっかん)という木の細く薄い桧板を何枚かつなげて、現在の扇の形にしたものが始まりで、これは薄いヒノキ板を重ね綴ったことから「桧扇(ひおうぎ)」と呼ばれ、最古の桧扇は元慶元年と記されている東寺の仏像の腕の中から発見されたものであると言われています。そこから形状が洗練され、宮中女子の間に広がるころには扇面は上絵で飾られた雅やかな身の回り品になりました。平安時代の間に、桧扇についで、竹や木を骨として、片面にだけ地紙を貼った「蝙蝠(かわほり)扇」という紙扇が登場しました。平安時代も末期になると、扇の骨に透彫(すかしぼり)をした「透扇(すかしおうぎ)」「切透扇(きりすかしおうぎ)」が生まれ扇子も多様化してきました。これらの扇子は招涼用というより貴族社会の地位のシンボルや礼式時の装飾物として、貴族や僧侶、神職たちによって用いられたもので、一般の使用は禁止されていました。冬扇・夏扇をはじめ、室町以降は香道・茶道・舞踊など様々な用途にあった扇子がつくられるようになりました。13世紀頃には中国、そしてインドを経てヨーロッパに伝えられ、ルイ王朝の社交界において西洋風の扇が生み出され、それが日本へ逆輸入され、「絹扇(きぬせん)」を生み出したと伝えられています。そして江戸時代になると庶民の日常生活に使われるようになりました。

伝統工芸品

伊勢形紙

工芸用具・材料 | 三重県 | 知る

伊勢形紙は、友禅、浴衣、小紋等の柄や文様を、着物の生地に染めるために用いる形紙として、三重県鈴鹿市でつくられており、京都、東京を始め全国各地へ出荷されています。特に小紋にいたっては全国の99%が伊勢形紙を使って染められていると言われています。また、できあがった形紙は、美術工芸品や、ふすま・欄間・障子・屏風・ついたてなどの和室装飾品として使われることもあります。 伊勢形紙の歴史は古く、始まりについては色々な説がありますが、室町時代の絵師が「職人尽絵(しょくにんずくしえ)」に形紙を使う染職人を描いているところから、室町時代末期には形紙が存在したと考えられます。江戸時代には、現在の和歌山県と三重県南部を支配していた紀州藩の保護を受け、白子、寺家の両村を中心に発展を遂げました。

場所

金山古墳

古墳 | 大阪府 | 観光する

金山古墳は葛城山地西麓と富田林市南方に連なる丘陵との間にはさまれた東西約1㎞、南北約3㎞の台地上をなす谷の最奥部に位置しています。付近の地形を見ると、南東から北西に向かって舌状に張り出した小尾根を利用して築かれているのがわかります。 付近の標高は130mあり、墳丘上から北方約10㎞にある古市古墳群や遠く六甲山の山並を望むことができ、絶好の立地条件と言えるでしょう。墳丘は大小二つの円丘を連接させた形に築かれ、墳長は85.8mで北丘の直径は38.6mで二段重ね、南丘の直径は55.4mで三段重ねの円丘で、墳丘周囲は双円形の濠をめぐらせたわが国ではきわめて例の少ない、双円墳です。石棺の形や出土遺物などから、6世紀末から7世紀初めに築かれたものと考えられます。

場所

仁徳天皇陵

古墳 | 大阪府 | 観光する

大阪府堺市の町並みの中、忽然と姿を現す公園のように木々が茂った場所に、日本最大の古墳である仁徳天皇陵があります、仁徳天皇陵は世界三大墳墓の一つであることから、日本が世界に誇れる文化遺産でもあります。ちなみに他はエジプトにあるギザのクフ王のピラミッド・中国の秦の始皇帝陵となっています。墳丘(土が盛ってある部分)の全長は486mでこの長さは、三大墳墓の中で最も大きいものとなっています。その形は、あまりの大きさに空から見ないとわからないのですが、円墳(円形の墳丘)と帆立型の墳丘があわさって、ちょうど鍵の形をした前方後円墳という種類になります。その墳丘の周りには三重にもわたる水が張った濠(ほり)がぐるりと囲っていて、まるで敵からの侵入を守っている城のような、また人を寄せ付けない神秘的なイメージを醸し出しています。ここに埋められていた人は誰なのか、現在もはっきりとはわかっておりません。ただ、前方後円墳という形の古墳を作ることが許されるのは、かなり身分が高い人であること、そしてこれだけの大きさの古墳を作るには、想像を超える人と時間が必要なことから、当時日本の国を治めていた大王と呼ばれる位の人間だろうと考えられ、それが第16代天皇である「仁徳天皇」ではないかとされているのです。この壮大な古墳もそうですが、そこに埋められた副葬品と呼ばれる死者と一緒に埋められる品々の中に、金メッキを施した甲冑が見つかっていて、これは当時の最先端技術でそれを持つことができる人物は天皇クラスの身分の高い人しか持てなかっただろうということも明らかになっています。それ以外にも約15,000体にも及ぶ埴輪や、古墳の周り寄り添うようにして作られた小さめの古墳(培塚:ばいづか)が19基あり、そこからも様々な副葬品が見つかっています。

伝統工芸品

堺打刃物

金工品 | 大阪府 | 知る

「堺打刃物」と呼ばれる包丁は、大阪府堺市を産地とし、切れ味の良さから全国の料理人の包丁は90%以上が堺打刃物と言われるくらい、圧倒的な支持を得ています。 堺打刃物は今も600年の伝統が脈々と受継がれています。天文12年(1543年)、ポルトガル人によって鉄砲、たばこがもたらされました。16世紀の後半には、たばこの葉を刻む「たばこ包丁」が堺で作られるようになり、徳川幕府は堺に「極印」という品質証明の印を与え、専売を許可したことで、堺刃物の切れ味と名声は全国各地へと広がりました。江戸時代中期には、出刃包丁が出現し、その後用途に応じた様々な種類の包丁が作られるようになりました。

Copyright © 2007-2008 Wanoa Inc. All Rights Reserved.
(ワノア)は株式会社わのあの登録商標です。【登録第5115867号】